当ブログをご覧いただきありがとうございます


さて今回は久しぶりに映画の感想をまとめます!

劇場公開から約1ヶ月が経過した、実写作品 クルエラ について書きます。

ちなみに私は公開から数日後に字幕版で観賞したので、吹替版の感想については書けません。
また視聴する機会があったら追記するかもしれません!



映画の情報と予告編などは、こちらの公式サイトへ 




レビューサイト「Filmarks フィルマークス 
」リンク 




ここから先は物語のネタバレ有りな内容になるので、まだ映画を観ていない方はご注意ください


そして、このクルエラが大好き!という方へ、ネガティブな意見も出て来ますので御了承くださいませ。



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まず、私がこの映画を端的に表現するならば……
「エマ・ストーンのロックなプロモーションビデオ」です

そして、クルエラでありクルエラではない、パラレルワールドの彼女のお話だと感じました。


クルエラ(エステラ)役のエマ・ストーン&バロネス役のエマ・トンプソンという2人の演技派女優の競演、クールな雰囲気とお洒落なパンクファッションの世界、そして可愛いわんちゃん達の活躍、少女時代のエステラの男気あふれる雰囲気など楽しめる要素は沢山ありました



しかし、これは本当に自分が求めていたクルエラの映画なのだろうか?という疑問が付きまといました。


この自分の中の疑問について、具体的に5点の違和感をあげます。


このクルエラは本当に犬の毛皮から服を創造するのか?

少女時代のエステラはゴミ捨て場の中で子犬を見つけ、それから大事に育て一生のパートナーのようにして暮らしています。
これは現代の倫理規定を考慮しての設定かもしれません。

しかし、一生の友のような存在がいるにも関わらず、犬の皮を剝ごうという考えになる原因とは一体……

それ相応の経緯や動機がほしいです!

私の1つの仮説としては、愛しすぎたから死んでもなお一緒にいたいという思いで、その発想に至ったのではないか、というものですが、あまりしっくり来ていません。

そして今作は既に続編の計画があるようなので、次回作で経緯が語られるかもしれませんが、あの憎悪さえ覚えるような動物達へのぞんざいな態度と、今作のクルエラは一致しないのです。

本性を隠している状態のエステラではなく、サイコなクルエラとして覚醒したら何をするか分からないという、ありきたりな話では、私には納得できそうにありません。

現にクルエラとして覚醒した後も、犬たちを可愛がっているように見えるからです。


これと同じ事が、ジャスパーとホーレスにも言えます。
2人とも犬を可愛がっていますし、特にホーレスはウィンクという名のチワワを相棒にしています。

アニメーションの101匹わんちゃん、実写映画101や102において、クルエラの部下である2人も、動物を殺める事への戸惑いを感じていないように見えます。

なので前日談としては、大きな矛盾を感じずにはいられませんでした。



今作一番のサイコは、バロネスである!

エマ・トンプソン演じるカリスマデザイナーのバロネス。
キャラが立っていて良いです。クルエラよりもよっぽど狂人だと思います。

彼女が経営するファッションブランドのデザイナー達への扱いや、日頃の傍若無人な態度など、どこを取っても常人とは言えない存在だと感じます。

物語の終盤で発覚する事ですが、バロネスはクルエラの実母であり、産まれたばかりの実子を殺めるよう側近に命令しており、エステラの育ての母であるキャサリンを死に追いやったのも彼女です。

以上の内容から、クルエラの奇行が霞んで見えてしまい、上にも書きましたが、バロネスの方がよっぽどヤバイ奴という印象が残りました。

此の親にして此の子ありとも言えますが、あくまでも「クルエラ」がメインである作品のはずなのに、それが霞んでしまっていいのでしょうか。



ヴィランは絶対的な悪であってほしい!

結局の所この作品も、あのディズニーヴィランズにもこんな過去が…という哀れな一面を描きたいのかと落胆しました。

勧善懲悪のような流れは現代が求めるものとは違うのかもしれないし、同情できるような一面があった方が、その人物やキャラクターに感情移入できるとは思いますが、物語の中において、狂人は何処までいっても狂人という描かれ方で良いと私は考えます。
(上と同じ事をDCコミック原作のジョーカーの映画でも感じました)

今作のクルエラを見ても、根っからの悪やサイコという印象を私は受けませんでした。

子供時代は、ちょっと変わった子ぐらいですし、母親であるキャサリンを殺され、無碍な扱いを受けたから復讐に燃える等というのは、至って普通の人間の動機だと思うのです。



アイデンティティであるはずの喫煙具は?

アニメーション映画101匹わんちゃん、実写映画101でもクルエラは特徴的な長いパイプを持っています。

個人的に喫煙時に出る煙は大の苦手で、歩きタバコなんてとんでもない!と思って生活していますが、彼女にとっては象徴的なアイテムです。

何故ないかと言えば、米国ウォルト・ディズニー社において作中に煙草を用いる事が禁止になったからだと考えられます。

その代わりの彼女の象徴的なアイテムとして「杖」を持たせたのでしょう。

ファッションとしてマッチングしているので格好よくはありますが、どこか物足りなさを感じてしまいました。



前日談としては時系列に矛盾が生じる?

アニメーション映画101匹わんちゃんは、原作となる本が1956年、映画公開が1961年である事からも、その頃の時代のロンドンが舞台と考えられます。

それから実写映画101は1996年に制作され、時代設定は現代(その当時の)に置き換えられています。

そして今作は1970年代が舞台となっています。

プロデューサーの1人として、実写映画101でクルエラを演じたグレン・クローズが参加している事から、恐らくアニメーションよりは、実写版の方の前日談という意味合いが強いのだろうと考えましたが、犬の成長と寿命などを考えた時に矛盾が生じます。

70年代という設定はどこからきたのか、ただ格好よくなりそうだから選んだのではないか、という短絡的な考えに思えて仕方ないのです。


以上の5点が個人的な違和感でした。


この記事のタイトルを「パラレルワールドのクルエラ」としましたが、これらの矛盾を感じ違和感を覚えてしまった時、そのように言い聞かせなければ、私はこの映画を見ていられないのです。



ここで上の5つの違和感に関連するような記事のリンクを2つ載せます。

クレイグ・ギレスピー監督の時代設定についての発言が載っている記事



作品内で禁煙を適用という2015年の記事





さて最後に、私の映画鑑賞直後のメモ書きより、自分自身で読み返して気になった内容を数点だけ残して終わります。


 母親(育ての母キャサリン)の死が唐突かつ、割と雑なCG処理で犬に突き落とされ崖に落ちていく為、その嘆きに感情移入が出来ない。


 一緒に鑑賞した家族より、背景に現代の高層ビルが写ったように見えたが、70年代が舞台でそれは有り得るのか。(私は気づけなかった為、要確認)

これと似た事柄として、監視カメラや赤外線センサーの技術や形状は時代考証とマッチしているのか。


 ロジャーとアニータが登場するものの、アニメーションや以前の実写映画とのイメージが違い過ぎてしまい、登場人物として名前が同じでも誰だか分からない。
これもポリティカル・コレクトネスの影響なのだろうか。

(略称、ポリコレ:政治的、社会的に公正中立であるという考え方や概念のこと。社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策)



以上、長くなりましたが、映画クルエラについて自分が感じた事を書きました。

最後までご覧いただきありがとうございます

読んで下さった方の感想や御意見がありましたら、当記事のコメント欄にてお待ちしております

それでは今回は以上で終わります!
また次回や既存の別の記事も読んでいただけると嬉しいです

written by ゆららんど